ピーター・ボムのMotoGP技術解説|「スタートという極限のストレス」─その裏で何が起きているのか
モータースポーツ等に向けたデータ収集システムを専門とするサプライヤー「2D Datarecording」のセールス代表兼サポートエンジニアであり、MotoGPを取材するピーター・ボムさんに、記事を寄せていただきました。
今回は「MotoGPのスタート」について。スタート前、ライダーはマシンにどんな操作を行い、どんな準備をしているのか。今のMotoGPのスタートが、どれだけ複雑で緊張感にあふれているものかがわかります。
ピーター・ボム
64歳。2000年以降、主にデータ解析担当やクルーチーフとしてレースに携わり、ステファン・ブラドル(Moto2)やダニー・ケント(Moto3)とともにチャンピオンを獲得した。また、鈴鹿8耐への参戦経験も持つ。現在は2D Datarecordingのセールス代表兼サポートエンジニアとして、世界中のレースチームに向けたデータロギング機器の販売およびサポートを行うほか、技術記事の執筆やイギリス人ジャーナリスト、マット・オクスレーとともにポッドキャスト配信(「Oxley Bom MotoGP Podcast」)も行っている。
Oxley Bom MotoGP Podcast https://www.youtube.com/@OxleyBom

©Peter Bom
スタートという極限のストレス
テキスト:ピーター・ボム(Peter Bom)
翻訳:伊藤英里(Eri Ito)
イントロ
もしMotoGPに「スタートだけの選手権」があったなら、KTMはすでにいくつかのタイトルを獲得しているだろう。彼らのバイクは、1コーナーまでのスプリントで、一気に前方を支配することも少なくない。では、MotoGPレースのスタートとはどのように行われるのか。そして、誰もが求める「いいスタート」を決めるためには、何が必要なのだろうか。
今、なぜスタートはこれほど重要になったのか
私が覚えている限り、ライダーたちは土曜日の夜、「明日、いいスタートが切れますように」と願いながら眠りについてきた。理由は単純だ。スタートで出遅れてしまったら、トップ争いに加わるためにレースリーダーよりも速く走らなければならない。言うまでもなく、これは至難の業だ。多くの場合は不可能であり、もし可能であったとしても、タイヤやマシンに大きな負担をかけるため、その結果、終盤の残り数周で苦しむことになる。だから、これがレース前にライダーが口にするお決まりの言葉となるわけだ。
「本当に、いいスタートを決めたいよ」
ただ、かつてこの言葉をそこまで深刻に受け止めていなかった時代もあった。当時は、ライダーも同じように、それがすべてを左右するわけではないと考えていた。プラクティスでいいペースで走っていたライダーが、予選でうまく1周をまとめられなかったとしても、焦る必要はなかった。レースは長く(スプリントレースは2023年から導入されたばかりだ)、ライダー間の差も今より大きかったからだ。接戦だったのは上位だけで、それに当時はレース前半のペースも今ほど速くなかった。
そして、それがまさにここ10年ほどで変わったことだ。以前と比べてトップライダーが増え、サテライトチームのマシンは型落ちではなく最新機になって、今やファクトリーチームの若きライダーの育成の場になっている。トップライダーの増加と技術的進化(ライドハイトデバイス、エアロ)によって、現在、ラップタイムの差は極めて小さくなった。その結果、スタートで出遅れてから挽回することは、以前よりもはるかに難しくなった。加えて、これらの技術はオーバーテイク自体をも難しくしている。こうした背景から、スタートの重要性が高まっていることがわかるだろう。
スタートは、もしかすると重要になりすぎているのかもしれない。そう考える人は増えている。近年、タイトル争いは最終戦までもつれることが多い一方で、1戦1戦のレースそれ自体は以前ほどエキサイティングではなかった。スタート直後の数周で順位がほぼ決まってしまうレースも、たびたび見られた。これには理由がある。まず、エアロによる「ダーティ・エア」の影響で、前を走るライダーをオーバーテイクする選択肢が限られているのだ。
さらに、接近した状態で走り続けるとタイヤの内圧が上昇すること、そしてライドハイトデバイスによって、必ずしもトップレベルとは言えないライダーでも加速性能を発揮しやすくなっていることも影響している。これらすべての要因によって、オーバーテイクがより難しくなっているのだ。
もっとも、MotoGPのルールメーカーもこの問題を認識しており、2027年に導入される新たな技術規則では、ライドハイトデバイスは廃止され、エアロの影響も抑えられる見込みだ。その時が来るのが待ち遠しいが、それまではスタートの重要性は今のままだろう。そしてライダーたちは、今夜もまた「明日はいいスタートを」と願いながら眠りにつく。
スタート手順:すべてのレバーとスイッチが一列に並ぶ
ウォームアップ・ラップの終盤、ライダーがスターティンググリッドに近づくと、ここから一連の操作が始まる。これらはすべて、正確なタイミングと順序で行わなければならない。まず、最初のレバーを操作し、その後、フロントブレーキだけを短く強くかける。これによってフロントサスペンションは沈み込み、ストロークの深い位置で固定される。続いて、同じレバーを元に戻す。こうすることで、1コーナーでのブレーキング後にフロントサスペンションが再び伸びるようになる。スターティングポジション手前の最後の数メートルでは、ニュートラルロックのレバーを操作し、ギアボックスをニュートラルに入れる。
グリッドに到着すると、今度はリアのライドハイトデバイスのレバーを操作してスタート用の最も低い位置にセットする。フロント、リアともに車高は非常に低くなり、ギアはニュートラルの状態で、ローンチ・コントロール(LC)を作動させる。電子制御がすべて正常であると判断すれば、ディスプレイには待望の「LC OK」が表示される。その後、クラッチを素早く数回握り、クラッチプレートを完全にフリーの状態にする。そして、全員の準備が整ったことをスターターが示すのを待つ。最後に、1速に入れてスロットルを全開にする。そして、スタートシグナルが消える瞬間に、極めて素早く反応することが求められるのである。
1コーナーまでのスプリント
シグナルが消えると同時に、クラッチを一気にリリースする。マシンは前方に飛び出し、ライダーはクラッチ操作でリアタイヤに伝わるトルクを微調整する。クラッチのつながり方がグリップとLC設定に完璧に合えば、低いギアから一気に、スムーズに駆け上がるように加速していく。KTMが、いつもそうしているように、だ。
しかし、失敗することもある。クラッチのつなぎ方、LCの設定、ライダーのポジション、路面のグリップレベル……この複雑な組み合わせのどこかが狂えば、加速は鈍ってしまう。回転数が落ちすぎてしまえば、クラッチをより滑らせる必要がある。最悪なのは、クラッチが急激に、激しくつながってしまうことだ。そうなるとウィリーが発生し、スタートは失敗に終わるだろう。
ローンチ・コントロールとは何か
「コントロール」という言葉から、すべてが制御されるように思われるかもしれないが、実際はそうではない。レギュレーションによって技術的な制御の範囲は制限されており、ライダーはすべてをコントロール・システムに頼ることはできないのだ。つまり、ミスも起きれば、逆に非常にうまくスタートを決めることもできる。だからこそ、反射神経や能力で差をつけられる。実際、度々上手いスタートを切るライダーがいるが、それは偶然ではない。彼らは、並外れた反射神経と、クラッチを操作する繊細な左手の感覚を持っているのだ。
それでは、LCとは何か? 端的に言えば、電子制御ロジックによって、最大回転数とリアタイヤに伝達されるトルクを制御するシステムである。LCは回転数を制限することで、ライダーはスロットル全開のまま、クラッチ操作だけに集中できるようにしている。
しかしさらに重要なのは、LCはスピードとギアに応じて最大トルクを制御し、調整するということだ。速度が上がるほどリアタイヤにかかる荷重も増えるため(一部はエアロの影響でもあるが)、それに応じてより大きなトルクを伝えられるようになる。プラクティスの終わりに行われるスタート練習が重要なのは、このためだ。ライダーの練習であると同時に、エンジニアが各テストスタートからデータを収集し、その時のグリップレベルやバイクのセットアップ(重心、荷重、タイヤのグリップ)に合わせて、LCを微調整しているのである。
極限のストレス体験
MotoGPのスタートは、ライダーにとって極限のストレス体験だ。だからこそ、この慌ただしい局面でも冷静さと集中力を保てることが、トップライダーに求められる能力の一つとなる。
その緊張は、すでにスターティンググリッドへ向かう途中から始まっている。上述の一連の操作すべてを、正確なタイミングと順序で行わなければならないからだ。やがて、周囲を取り囲むマシンの轟音の中、ライダーはマシンに伏せるような姿勢で、スタートシグナルが消える瞬間を待つ。
スタートが切られると、猫のような反射神経でマシンを直進させ、あるいはうまくスタートできなかった他のライダーを回避する。フロントタイヤの内圧が低く設定されていること(これはレース中に適正値まで上昇する)、極端に低い車高、そして非常に硬いフロントサスペンション――これらが組み合わさることで、この瞬間のマシンは、一時的に反応が鈍く、操舵の重い“ロケット”のような挙動を示す。
そして1コーナーで強いブレーキングが行われると、サスペンションやリアのライドハイトのロックが解除され、マシンは再び普通の挙動を取り戻す。もちろん、MotoGPマシンを「普通」と呼べるのであれば、だが。
スタートの才能
スタートはレースそのものではない。そこでは技術に加えて、反射神経、攻撃性、そして勇気の組み合わせが重要だ。最初の数コーナーでのストレスと混乱の状況を得意とするライダーもいれば、そうでないライダーもいる。
マルク・マルケスや(ジャック・)ミラー、(フランチェスコ・)バニャイア、(ホルヘ・)マルティンは、長年スタートに優れたライダーとして知られてきた。特にマルケスは、レース序盤の数周でのオーバーテイクにも長けている。
一方、(マーベリック・)ビニャーレスや(エネア・)バスティアニーニのように、この重要な序盤で順位を上げるよりも落とすことの方が多いライダーもいる。
スタートは、レースとは別物だ。いいスタートを切ったからといって勝利が約束されるわけではない。しかし、いいスタートなしに勝てるレースは、ほとんどない。
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