MotoGP取材紀行|フィレンツェの少女
その日は、MotoGPを取材するために、わたしはイギリスのロンドンからイタリアに移動してきたばかりだった。
ロンドンからボローニャまでは飛行機で移動して、ボローニャからフィレンツェまでは鉄道を使った。移動の都合で24時間以上起きっぱなし。端的に言えば、寝不足でふらふらだった。「ああ、気を付けないとな」と、頭の片隅で考えた。ごちゃごちゃと人であふれるフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着いたときのことだ。自分にそう言い聞かせたことを、その場所まではっきりと覚えている。
「こういうときに、危ないんだ」と。
わたしが言うのもどうかと思うけれど、安全はある程度、お金で買える。だから、よほど体力があり余っていると自信がある人ならともかく、海外旅行では少し予算をオーバーしてでも余裕をたっぷりともった旅程を組むことをおすすめします。体力が奪われるとともに思考が鈍くなり、リスクも上がる。わたしもそれは理解していたのだけど、MotoGP取材のために長期間ヨーロッパを移動する生活をするようになって3年目になり、安全とリスクのぎりぎりのラインを窺ってしまったのだ。
結論から言えば、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から乗ったトラムの中で、パスポートを盗まれた。
大きなスーツケースと小さなスーツケースを一つずつ持って、大きなリュックサックを背負っていた。特にイタリアではトラムや電車内でリュックサックを背負ったままにするのはとんでもないことで、必ず体の前に持たないといけないのだが、寝不足で貧相な働きになったわたしの哀れな脳みそは、そんな大事なこともすっぽりと忘れてしまったらしかった。
トラムに乗ってすぐ、イタリア人の女性がわたしのすぐ左隣にいた少女に激しい口調で問い詰める。少女は「そうじゃない、何もしていない」といったことを何度も繰り返している。驚いてやりとりを見ていると、女性がわたしに向き直り、「マダム、その娘に気を付けて」と英語で言った。
──気をつける? 何に?
(わたしのかわいそうな脳みそは、それでも理解できなかった)
忠告をくれた女性の言葉を反芻していたわたしは、隣にいた少女をじっと見る格好になった。少女もこちらを見ている。視線が交じわる。けれど、こちらを見る眼にはあきらかに動揺が浮かんでいて、落ち着きなくそわそわしていた。
14~15歳くらいの少女。背丈は150㎝くらいだろうか。明るい髪色をしている。
トラムが、揺れる。
次の停留所で、少女は逃げるように降りていった。ぽかんとしてリュックサックを前に抱えようとしたとき、すべてを理解した。リュックサックのチャックが開いたままになっていて、パスポートを入れたポーチが抜き取られていたのだ。
──やられた!
目的地を前に、トラムから降りる。一度、冷静になる必要があった。深呼吸。深呼吸。これ以上、トラブルを招くわけにはいかない。深呼吸。幸いにも、パスポートを失くしたときに何をすべきか、何が必要なのかはわかっていた。長期で海外に行くと決めたとき、先輩たちが教えてくれたり、体験談を聞いていたからだ。
フィレンツェのトラムの停留所で、わたしは腹をくくった。ないものは、ない。後悔しても前には進まない。
6月のフィレンツェはとても暑い。陽射しが強く、肌を焼く。脱水症状にならないよう、少しずつ水を補給しなければならない。眼を突くような陽射しの下で、やることを頭のなかでリストアップする。警察署に行ってポリス・レポートをもらい、そうしたら日本大使館に電話して……。
その間も、わたしの脳裏から、あの少女の眼が離れることはなかった。
パスポートがなくなって、それなりに金銭的な被害もあった。パスポートが入っていたポーチには金銭は入っていなかったが、様々な事情を勘案して、イタリアの日本大使館でパスポートを発給してもらうことよりも帰国することを決断した。9月中旬までは帰らないつもりでいたので、新しい航空券をはじめとする細々とした費用を合わせると、損害額がそれなりにダメージのある金額になるのだ。
金額ばかりではなく、パスポートがないことと帰国のための手続きなどで、最終的にかなりの労力もかかった。MotoGPの取材に影響がなかったことだけは、不幸中の幸いである。
それでも、不思議と少女への怒りはなかった。今も、ない。
不安、恐れ、おびえ、諦念。いいや、あの眼が物語っていたのは、そんなものではないかもしれない。あの眼を思い出すたびに、「どうして」という思いの方が先に立つ。そして同時に、彼女の眼が語るものを決して正確には理解できないであろう自分の呑気さと、無知に愕然とする。
フィレンツェのトラムで、リュックサックからパスポートが消えた状態で、少女と視線を交わした数秒間を、今もわたしは大事に大事に持っている。そうして、時折そっと取り出しては、眺めているのである。じい、と。じいっと。
もしフィレンツェの少女にまた会うことができるのなら、わたしは、彼女の話がとても聞きたい。
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