MotoGP取材紀行|コインランドリーの猫
MotoGPセパン公式テストの取材を終えた翌日、大量の洗濯物を抱えてコインランドリーに行った。洗濯物というのは、長旅において宿命みたいについてまわる悩みの種だ。スーツケースの中にある清潔な服が一枚、また一枚と減って、ランドリー用の袋に入っていくのを見るたび、本当に憂鬱になる。そして洗濯物で膨らんだランドリーバッグを見て、思う。「コインランドリーを探さないとなあ」と。
宿はクアラルンプール空港からクルマで15分もかからないほど近くにあったが、周りには平屋の家と(ときどき2階建ての家もあった)、住民が常連なのだろうローカルな飲食店と、ペットボトル飲料やお菓子やカップラーメン、ちょっとした日用品を売っている商店がぽつぽつとある、そんな場所にあった。
小柄で小太りのおじさんは、管理人室につながる呼び鈴を鳴らすと「イトー!」と呼びながらにこにこして出てきた。
「ランドリーに行きたいんだけど」と聞くと、近くにあるという。ああ、よかった! ランドリーバッグをぎゅうぎゅうにしている服を、宿の小さな洗面台でひたすら洗う羽目になるのは避けられたようだ。
1キロほどの距離だというので「歩いて行くよ」と言えば、おじさんは「ありえない!」という表情をして「遠いよ、自転車で行きなよ!」と強く自転車を進めてくる。結局、おじさんに押し切られる形で自転車に乗ったわたしを、おじさんは親切にもホンダのアンダーボーンのバイクに乗って、ランドリーまで先導してくれた。
ホンダのアンダーボーンのバイクはぼろぼろで、とことん古かった。でもバイクはちゃんとおじさんの足になって走った。おじさんは、汗だくになってペダルを漕ぐわたしを、少し行っては待ち、また行っては待って、ランドリーまで送ってくれた。
ランドリーは空いていた。一人の男性が乾燥が終わるのを待っているだけだった。洗濯物を洗濯機に入れると、日本から持ってきた文庫本を開く。ずいぶん古い文庫本だった。20年以上も前に、しかも古本屋で買ったものだ。だからわたしは、その本が新しかったときを知らない。
日本語が聞こえてくるので聞き耳を立てれば、どうやら男性は、スマートフォンでアニメの「ワンピース」を見ているらしい。
腰かけたその隣の椅子には、小さな猫が陽に当たりながら眠っていた。灰色のトラ柄の猫だった。呼吸に合わせて、ふわふわの毛に覆われた薄いお腹がゆっくりと上下する。ふと目を覚ました猫は、見た目よりも渋いだみ声で「にゃーん」となにかを求めるように鳴いた。思いのほか渋いだみ声だった。だみ声の猫は椅子から降りて少しだけランドリーの外に出て、「もうこれ以上は行けないんだった」と思い出したように、うろうろしてから戻って来た。そして、また椅子でくるりと丸くなって眠った。
洗濯機のなかでは、洗濯物がぐるぐるとまわっている。時折、洗濯物の回収や洗濯物をしに、人がやって来ては出て行く。彼らが乗っているのは、だいたいぴかぴかのクルマである。ランドリーには似合わないくらいに、日に照らされてクルマの塗装がきらきらと光る。
日本の真夏の午後のように暑い日だった。暑さが時間の流れをのっぺりと動かしているような、輪郭のぼやけた時間。いつかどこかで過ごしたもの。ドアも壁もないランドリーに、熱い風が吹き込む。空は青い。思い出したように、木が風に揺れる。
猫は椅子で眠り続けている。
わたしは、この時間を知っていた。
日本から遠く離れたマレーシアのセパンで。何もかも知らない土地で。不思議なことだが、海外を旅していてさえも、懐かしさに近い感覚がよぎることがまれにある。そこが、どこであろうとも。
洗濯と乾燥を終えた洗濯物を自転車のカゴに突っ込む。洗濯物からは、「知っている気がする」柔軟剤の匂いがした。
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