MotoGP取材紀行|海を渡って日本食
MotoGP取材で1年のうち4、5カ月も日本を離れていると、当然ながら、日本食が恋しくなる。
スペインのハモンは大好きだし、イタリアで食べたイカ墨パスタやシーフードのピザは絶品だった。でも、やっぱり日本食が食べたくなる欲求には勝てないのだ。それは、美味しいスペイン料理やイタリア料理とは全く別の種類の欲求なのだろう。
だから、わたしは月に1度は日本食レストランに行くことにしていた。いや、正しくは「月に1度は日本食レストランに行かずにはいられなかった」と言うべきか。日本食ブームなのか、ありがたいことにだいたいの都市には日本食、あるいは日本食に近い料理を出すレストランがある。決して安くはないし、日本人が経営しているレストランだって多くはない。けれど、日本の味に近いごはんを食べると、体が安心しているのがわかる。人は食べたものでできている。そこには、食べたときの感じ方も含まれている。
5月上旬、わたしはスペインGPの取材を終えたあと、フランスはパリ郊外の街、マシーに滞在していた。すっかり日本食に飢えていたものだから、スーパーマーケットで奮発してサーモン丼を買った。大きなスーパーマーケットなら、スシみたいなものは売っているのだ。ただ、ネタは圧倒的にサーモンが多い。あとはマグロ。イワシやアジ、サンマ、サバ、カツオ、ブリといった青魚のスシはほとんど見たことがない。
そして、サーモン丼である。
口に入れてびっくりした。醤油が甘い! 海外でスシを食べてきたけれど、テイクアウトのスシでこんなに甘い醤油だったのは初めてだった。例えるなら、みたらし団子のあんがサーモンにかかっているような。久しぶりの日本食にすっかり浮かれていただけに、そのショックと衝撃は大きかった。でも、仕方ない。これが日本を飛び出して海を渡った、フランスのサーモン丼なのだ。
甘くて衝撃だったサーモン丼。味噌汁はスーパーマーケットで調達したインスタント©Eri Ito
イタリアのリミニで食べたシーフードピザ。絶品©Eri Ito
イタリアのヴェネツィアで食べたイカ墨パスタ。イカ墨パスタは見た目で損している料理の一つだと思う©Eri Ito
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マシーのスーパーマーケットといえば、こんなことがあった。
「どれが炭酸水じゃないんだ?」とペットボトルをにらんでいると(炭酸水が苦手なわたしには、非常に重要な問題だ)、少年が話しかけてきた。年のころは9、10歳くらいだろうか。いや、わからない。彼らは日本人とは違う成長の仕方をするからだ。もっと幼いのかもしれない。
何事かを話す少年に「フランス語は話せないよ」と返すと、「English?」と言う。「イエス」と答える。
すると少年は、拙い英語でこう言った。
「お金、持ってる?」
つまり、お金をめぐんでくれ、と言っているのである。それにびっくりしたのは、ついさっきまで少年が母親と思しき女性と一緒に、そのスーパーマーケットで買い物をしていたからだ。
(9歳か10歳の少年である。いいや、もっと幼いのかもしれない。わからない。だって、彼らは──)
「言っていることがわからないな」
笑顔でそう言ってとぼけると、少年はばつの悪そうな顔をして、去っていった。話しかけてきたときも小声だったし、のどの奥で言葉がわだかまっているような話し方をしていた。彼がこの「仕事」に後ろめたい気持ちを抱いているのだとわかった。
アパートメントタイプの宿に帰ってから、スーパーマーケットで買い込んだトマトソースのパスタとサラダを作って食べた。トマトソースは2ユーロもしない安いものだったけれど、とても美味しかった。
***
フランス滞在中に、ちょっとだけ泣けたことがある。
SHOEIギャラリー・パリの取材のために、パリの凱旋門近くに行った。凱旋門から伸びる通りの一つ、グランド・アルメ通り沿いはSHOEIのショールームのほかに、ドゥカティ、トライアンフ、ホンダ、ヤマハなどのディーラーに、バイク用品を売るショップが並んでいる。さながら「パリのバイク街」である。
歴史的な重厚感のある建物のなかに、現代的なバイクショップが入っている、というのはなかなか見ごたえがある。脳が混乱するような感覚に陥る。日本ではちょっと見られない光景だ。凱旋門自体も素晴らしい建造物なので、パリに行かれるバイク好きにはぜひおすすめしたいエリアです。
取材を終えたあと、夕方にルーブル美術館からオペラ通りを少し歩いたところにある日本食レストランに行った。甘いサーモン丼を食べて以来、もう少しましな日本食を食べたいという欲求が日に日に高まっていたのである。
少しだけ奮発して、刺身の盛り合わせをオーダーする。それから、きゅうりの塩昆布和え、それから揚げ出し豆腐。
最初にやってきたのは、きゅうりの塩昆布和えだった。それを何気なく口に入れたとき、ぶわりと沸き上がるものがあった。文字通り、何かが胃の臓から這い上がって来たのだ。気が付くと、じわりと涙が浮かんでいた。思考なんて置き去りにされるほど、あっという間に。
冗談でも誇張でもなく、本当にちょっとだけ涙が出てしまったのだ。自分でも驚いて、誰も見ていないのに取り繕うようにビールを飲み込んだ。誰かに言い訳したくてたまらなかった。でも、どこにもわたしを知っている人はいなかった。パリで日本食を食べて泣けるなんて、まるで日本が恋しいみたいじゃないか……。
あのときの、きゅうりの塩昆布和えの味は、きっと忘れられない。
件のきゅうりの塩昆布和え©Eri Ito
日本みたいな刺し盛り。しめさばが最高だった©Eri Ito
日本を離れると出汁に飢える©Eri Ito
やたらとかわいい醤油さし©Eri Ito
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