MotoGP取材紀行番外編|「マン島TTレースは“LIFE”」。その言葉に導かれて

2025年、マン島TTレースを取材しました。マン島を訪れたのは2年ぶり2回目です。1回目に理解しきれなかった消化不良を、少しでもなくしたいと思ったのです。
伊藤英里 2025.08.02
誰でも

「マン島TTレースは……“LIFE”なんだ」。

そう語ったのは、2023年に初めて訪れたとき、島で出会ったひとりのマンクスだった。その言葉の意味を、わたしはずっと考えていた。

「危険な」レース? ──もちろん、それも事実だろう。けれど、それだけでは説明できない何かが、このレースには確かにある。観る者の心を深く動かし、何度でもこの島に足を運ばせるような“何か”が。

2025年、わたしはもう一度マン島を訪れた。今度は、より深くこのレースに触れるために。

バンガローに立つジョイ・ダンロップの像©Eri Ito

バンガローに立つジョイ・ダンロップの像©Eri Ito

親から子に伝わる観戦

「もう一度、マン島TTレースを見に行こう」

そう決めたのはいつだったのか、正確には思い出せない。ただ、MotoGPの2025年シーズン・カレンダーを確認して、「今年は長めにマン島に滞在してTTレースを追いかけることができそうだ」と算段をつけたのは覚えている。

2023年、3日間だけマン島TTレースを見に行った。そのときに出会った一人のマンクスの言葉が、今も頭を離れなかった。フォトグラファーの彼は、「マン島TTレースに初めて来たんです。普段はMotoGPを取材しています」と自己紹介したわたしに、うなずいてにっこりと笑い、こう言った。

「マン島TTレースは……“LIFE”なんだ」

3日間の滞在ではマン島TTレースのことを理解することなどできなかったし、今もその言葉の意味を考え続けている。

もし、マン島TTレースが「危険‼」(もしくは「デンジャラス‼」「クレイジー‼」だろうか)なだけのレースなら、これほどまでに人を惹きつけることはないだろう。そして、これはあくまでもわたしの肌感覚であるが、マン島TTレースの実際を知っている人ほど、そうした単純な言葉だけでこのレースを表現しないように思う。確かに、このレースは危険かもしれない。けれど、その言葉はこのレースの要素の一つであって、象徴とするものではない。実際に体感した人ほど、それをわかっているからだ。

マン島TTレースの何が、人を惹きつけるのだろうか。──だから、わたしはもう一度、このレースに行くことに決めたのだ。

今回の滞在は、2週間である。当初はごくひとりの観戦客として行くつもりだったが、最終的に仕事を兼ねることになった。

2週間、ホームステイしていた家には、何組かのマン島TTレース観戦客が泊まっていた。親子で来ていたイギリス人に話を聞くと、父親のほうは「自分の父親に連れてきてもらって」、親になった今、息子を連れて観戦に来ているのだそうだ。高校生の息子はちょうど年ごろなのかシャイだったけれど、ホンダのトレーナーを買ってうれしそうに着こんだりしていて、なかなかのバイク好きのようだった。その彼とキッチンでばったり会ったときには、「次に来るときは、自分のバイクで来られるかも」と話していた。このときは、父親のバイクにタンデムしていたのだ。

なにしろ、1周が60kmもあるコースである。クルマやバイクがなくても観戦はできるのだろうが、移動手段があるにこしたことはない。今回、わたしは徒歩または公共交通機関で移動して回ったけれど、なかなかに大変だった。というわけで、観客もフェリーでバイクとともにマン島に来る人が多く、道を走るバイクの数がとても多い。数年後には、彼も自分のバイクであの中に混じっているのだろうか、などと思う。そして、さらに数年後、十数年後には、彼の家族と来ているのかもしれない、とも。

日常の風景に現れる「レース」

レースがなければ、マン島はのどかな島だろうな、と思う。山肌には羊が放牧されていて、もくもくと草を食んでいる。バンガローからスネーフェル山岳鉄道で山頂を目指すと、羊たちが線路のすぐ近くまで来ているのが見えた。ゴトゴト、と1両だけの電車はゆっくりと螺旋を描きながら山頂へと登っていく。電車は時折、汽笛を鳴らしていた。おそらく、羊に知らせるためだろう。

バンガローには小さな駅がある。2階建てでトイレがあることにはあるが、待合室のように広くはなく、パイプ椅子が4脚「座るならどうぞ」といったぐあいに並んでいるだけだ。ラクシーの街から登って来た電車、山頂から下って来た電車が、ここでいったん停車する。予選やレースが始まれば道を通過することはできないので、電車はコースとなった公道の手前で停まり、乗客を降ろしてラクシーの街に折り返していく。

この場所には、バイクや電車でやって来たたくさんの観客がコース前に陣取っていた。振り返ると、つい先ほど訪れたスネーフェル山頂が見える。山頂でも標高は621mしかないのだが、それでもこのあたりは下界のダグラスの街に比べたら、気温がずっと低い。天気がよくても四六時中冷たい風が吹いているものだから、わたしはネックウオーマーを置いてきたことを後悔した。6月とはいえ、あらゆる防寒対策は必須なのだ。

そんなことを考えながら、折り畳みチェアに座っている人たちを見ると、しっかりと着こんでいる。寒そうに座っているおじいちゃんには、若い女性が「これで温まって!」と言わんばかりに分厚い布団を渡していた。

数名の友人たちと来ているらしい40代くらいの男性は、お湯の入った紙コップを持って、バンガローにあるビクトリーカフェから戻ってきた。そして、紙コップにジェムソンを注ぎ、大事そうにホットウイスキーをすすった。ヨーロッパの人たちは寒いくらいの気温の日でも半そで、半ズボンで過ごしているものだが、さすがに寒いらしい。

マン島TTレースはスケジュールが遅れることが当たり前で、この日も大いに遅れた。みんな、それぞれに暖を取りながら、のんびりとレースを待っていたのである。不思議なことだが、これほどにスケジュールが遅れても、あからさまに文句を言ったり、不機嫌になる人を見たことがない。

風はびゅうびゅうと吹き続けている。けれど、次第に雲が流れて陽が差し始めた。やがて、遠くからエキゾーストノートが響いてくる。「あ」と思う間もなく、レーシングスピードで、バイクが駆け抜ける。停まっていた電車の脇を通過し、そのすぐ傍にある歩道橋を通り抜ける。ライダーは、エキゾーストノートと見る人を揺さぶる衝撃を残していった。

寒風吹きすさぶ中、観客はレースを待ち続ける©Eri Ito

寒風吹きすさぶ中、観客はレースを待ち続ける©Eri Ito

「自分が含まれている」と思えるレース

マン島を離れてからもしばらく、わたしはマン島TTレースのことを考えていた。そして、そのたびにあのバンガローで見た情景が脳内で再生されることに気が付いた。

寒い中でもレースを待ち続ける観客。響いてくるエキゾーストノート。ライダーは、山を切り裂くようにして、背中の残像だけを置き去りにして駆け抜ける。

マウンテンコースには様々なセクションがあるが、マウンテンエリアは特に美しい©Eri Ito

マウンテンコースには様々なセクションがあるが、マウンテンエリアは特に美しい©Eri Ito

これはあくまでも個人的な感想にすぎないのだけど、マン島TTレースには「共有」があるのだと思う。それは、スケジュールのディレイにも耐えて、寒さにも耐えて、一緒にレースを見るという観客同士の共有であり、自分たちがレースの一部であるという共有でもある。

もちろん、わたしが普段取材しているMotoGPでも、現地での観戦であれば、そうした共有の感覚はあるだろう。ただ、レースの一部、という感覚は、マン島TTレースが島の公道で行われているレースだからこそ、その色合いを濃くする。マン島自体が、このレースの象徴なのだとすれば、わたしたちはその中にいる間ずっと、レースの一部として組み込まれていると言ってもいいのかもしれない。レースの近代化、興行化とともに確実に引かれたはずのボーダーラインはそこにはなく──実際にはあるのだけど、精神的な境界線という意味ではレースの「あちら側」と「こちら側」がとてもあいまいだと感じる。

そして、そうした共有感覚の中にいるからこそ、このレースは「今目の前で起きているレースだけがすべてではない」とわかる。実際のところ、マン島TTレースは1907年から始まって100年以上の歴史があるのだが、感覚的に「ああ、このレースはその歴史を含んだすべてで物語られるものなのだ」と思うのである。そして同時に、自分がその歴史の一部になっていることも、そうと知らずに感じている。

スーツケース二つを手に、リュックサックを背負ってマン島を発った日、忘れ物は何一つなかった。けれど、空港に向かうバスに揺られてのどかな草原を眺めていると、何かを残してきたような気持ちになった。忘れ物があるのだと思える限り、きっとまたわたしはマン島に行くことになるだろう。

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